「空中文学」シリーズ

「空に書き物する男の話」


作:霧野カナタ


 遠く西のはずれの国に空中に書物を記すを生業とする男在り。 この男その幼き日より書物を好み高らかなる声にて朗読すること止むことなし。この男子、過人の作を読むことのみならずやがては自ら物語することを喜びとする。家族は固より近在のものも集まり来たりて、男の造作したる、人界離るる秘境世界の冒険録、英雄豪傑の一代記、奇想天外なる未来の幻想見聞録の数々を耳に楽しみ、心遊ばせる事、習ひとなる。やがては近き森より、幾多の禽獣も少年の物語るを聞かんとして類従すること習ひとなる。
 かくして年月経るほどに少年も眉目秀麗なる健やかなる男と成りけり。やがて近き村々の若き女達に聞こえ渡りたるには、かの男子の姿形の美しきこと白き鹿の如く、その朗唱の声音、楽師の奏で出でたる琴の音の青き空を駆けめぐるが如しとの評判あり。女達、家々の賄ひ支度打ち捨てて集まり来たる。彼の家、雪に閉ざされし寒き冬の季も、百木に華咲き乱れるが如く賑やかな景色となりぬる。

 男十六の冬去りて草木の芽吹く春の訪れとなりぬる。近在のもの皆耳澄ますにもかの美しき物語空に聞こえずして三日に及ぶ。家々村々のもの、謂れもなく気色を失い口争い絶えず。しかして男の声止むこと一月の長きに至れり。やうやく村に知れ渡りたるに、男、高き熱に犯され長きに渡り病に臥したりといふ。さらに病長きにおよび、一年の月日経れど再びかの朗々たる美しき声聞くものひとりと無し。とふとふ男病にてその声を失うの不幸に及ぶ。男、嘆くも声に出して嘆くこと能はず。男病癒えども、ふさぎこむこと尋常にあらず、床に臥して離れず只管空に向かひ雲の流るるを見て過ごすばかりにて、書を読む習ひ、物語を作する習ひうち忘れたり。
 ひとつ山の彼方に住みたる娘、かねてよりかの男に心寄せたりしが、男の哀れなるさま人伝に聞きて、日に一度は男の元に通ひて、男とともに青き空ながめすがめつして時をすごしたる。やがて男、女の通ひ来るを心待ちにして、女の出で来たれば顔の奥にて笑みを為す。
 秋も末の夕べ、暮れゆく赤き日の静けさに心奪われし女、男に寄り添ひたりしが、ひとり問わず語りにもの謂ふことあり。そは、遠き昔ひとり漁に出て魚になりし老人の説話なり。女の話す物語を耳にしたる男,たちどころにその容色を失ひ足り。すなわち女の語りたる老人の話、男が心の内に、しゃべれぬ声にてひとりごちたる物語にひとことも違うことなし。やがて男伏して涙ただ流すのみとなり。女、男の尋常ならざる様子に心痛めしが、男の気色安らかなるを見ていぶかしむ。女やがて、口から出でたる物語、男の心にて語りし物語なるを悟るに至れり。不思議なることかな、男と女互ひに顔見合わせしては驚き泣き過ごしゐたり。
 冬来たれり。かの女、男に代わりて村人に物語きかせること習わしとなる。家々の外にては、ただ雪の落ちゆく音のみぞ聞こゆる。
 甚だ寒き真白な朝あり。早起きの子供、外に出て雪の降り止むを見る。子供やがて雪の野原に文字と覚しきしるしの数多あるをいぶかしむ。子供、村の大人呼び知らせたり。人々大勢出で来たりてみるに、雪原に記されし物語と判る。村人の甚だ驚きて声も無し。その雪の上の物語、ゆうべかの女の語りたる、相生の松に背に美しき羽のはえし男と女の子供の生まれ出でたる不思議の話しなり。人々寄り集ひて、かの男声を失ひしも女に意通じ物語りをなすこと、尊き神の思し召しなる験成るべし、あな有り難き御心にしあらむとぞ、互ひに感じ入りたり。

--- 完 ---