ひとり、男が歩いている。
男の歩みの行き先には漂白された如く真っ白な砂利道が水平線の先まで続いている。果てしないその道の両側には背の低い灰褐色の雑草が息を潜めるように生い茂っている。
周辺の世界は息を殺して男の歩みを見つめているかのように、微動だにしない。男の他に気配があるのはただひとつ、男のあとを追いかけているぼんやりとした黒い蛇のみである。ところが、蛇に見えたそれは男の後姿を執拗に追い回す男の影だ。その忠実な影法師と男の歩く意志とはなしかしら乖離しているようにみえるのだが、そのわけは、地上を滑るあいまいな男の影と男の履いた両の靴が確かな接点を持っていないからである。男の両足は地面から10cmばかり空中に位置しているのであって、男のカラダは地上に浮いたまま歩みを進めているのだ。それにもかかわらず、男の靴はザクザクと砂利を踏む音を立てて道端に跡を残しており、塵埃にまみれた数知れない足跡は男の辿ってきた道筋を明確に記録している。男は中空で一度立ち止まり、やがて風化してしまうであろう地上に残るそれらの黒い点の集積を、頭の後ろに浮かぶ第三の眼で名残惜しそうに眺めてみた。
男は,旅の実体は未来に向かっているのではなく、むしろ辿ってきた過去の旅程を示す痕跡にしか過ぎないものなのだと理解した。すると、かすかに涼しげな風が足元から吹き上がり、白髪混じりの男の髪と戯れながら傍らを過ぎ去って行った。男の存在するこの世界では、風もまたあてどのない旅人に過ぎない。男もまた風のように明確な目的を持たぬのであって何者かの気ままな意志のありかたに導かれるまま歩みを進めているのである。瞬時に過ぎ去っていく風のはかなさと男のあいだに違いがあるとすれば、男には存在の愚鈍なる実感があり、その実感が自らの歩みを追いかけているといったところであろうか。
男は歩き続けるしかない自分の運命を受け入れている。地上10cmの透明な地平にある男の存在は、何者かの強い意思が地上の重力を懐柔し物憂げに弛緩した筋肉の塊をたしなめたかのような感傷に満ちている。その支えの無いとぼとぼとした歩みは、荒土を侵食し奥底まで沈殿した星の記憶の表層をさすらっている。
男はやがて、空の断片を切り取って溶かした液体を満たしたかのように青く透き通る瞳を持った金髪の少女がひとり、首から下は土中に埋まったままひそやかに呼吸をしているのに気がついた。男は歩みを止め、少女の右の眼に流れるひとしずくの涙を認めた。
男は涙の意味を読み取ろうとした。
「この涙は果たして少女の流すものだろうか?わたしのからだの内部に流れる哀別の涙ではないのかしら。」
男は、白くか細い少女の首にからみついた蔦状の植物と透き通った青い小さな花が咲いているのを見て確信した。少女の涙から産まれた情緒の花は明日の朝には枯れ果ててしまうだろう。瀕死の青い水球はやがて真っ青な竜胆の球根に変貌し、土に埋もれて見えなくなるのだ。
「少女は恋をしたことがあるのだろうか。」
男が少女の髪の毛に優しく指を伸ばそうとすると、かすかに悲しい微笑みが少女の口元に浮かんだかに見えた。男はそれに何かしら答えようとしたが、自分は確実に無力であり、歩き続けるしかできないことを自覚する。少女の表情に宿る命の花は幸いにも男の記憶に痕跡を留めた。男の目の前にいる瀕死の少女は傾斜する生命へのとまどいに涙しつつ、明日にでも朽ち果てる。すべての生命は容易に美しく消えていく。
突然男は周囲に圧迫感を感じた。その因を探るためにあたりを見渡すと、半透明な生命のあわただしい気配があり、それは姿を持たない道行く巡礼者たちであって、口々に「冷たい水をください。」と訴えて男の傍らを通り過ぎていくのであった。気がつくと、巡礼たちの渇ききった喉を潤すであろう永遠の清水の数々が、野に果てた13世紀の騎士たちの背中にこんこんと命のように湧き出ている。
神を求める巡礼たちの目にはそれが見えないのだが、男の目には慟哭したまま息絶えたものたちの壮絶な情景が縋りつくように映っている。
傍らを歩いていく巡礼たちは男に一瞥を向けるが、男が水を持たぬことを確認すると一様に落胆の色を見せる。すると、巡礼の姿はよりいっそう薄く透き通ってしまう。その汗まみれの瘠せた胸の中央では、水を飲むためにあしらえた貝殻の首飾りがカラカラと空しい音を立て続けている。
苔生した鎧を身に纏った騎士たちの背に生息する芳醇な泉こそ目に見えないが、尽きることのない湧き水の甘い匂いは巡礼達の嗅覚を激しく刺激する。
(水の匂いがする。目の前にあるはずだのに、いったいそれはどこにあるのかしら。)
巡礼者達の悲壮な共有意識はいっそう彼らの焦燥を結合せしめ、はるかなる聖地へとその旅情を駆り立てる。あてどない聖地での安逸を希求し、地面の上を確実に踏みしめて歩いているはずの巡礼達の道程には足跡がない。彼らは3分の1の心臓で足をひきずって進むのだが、飢えている限りは皮肉にも歩き続けることができるのだ。よしんば、見えぬ目で水を手にし、渇きを満たしたとしてもその途端、からだの内側で氾濫する洪水の流れに溺れ命を失う運命にある。
巡礼の飢えを促がしていたもうひとつには、空の一点で膿んだようにオレンジ色に鈍く輝く太陽の熱さであるのだが、その勢いがはや地上へと失速するのが見てとれる。またしても渇きの満たされることのないまま巡礼達の旅は一日の行程を終結する。巡礼たちは嘆きのなかでゆっくりと瞼を閉じ、凍りついたように坦懐の念を口にした。その木漏れ日のような巡礼たちの呟きは、無情な生命の宿命に宿りつく中空のプラーナと邂逅し、たちどころに黄金の蝶と産まれ変わり紅色の夕暮れを飛び交っている。男は、無数の変化の蝶が薄暮のなかに吸い込まれるように飛び去っていき、流星と区別がつかなくなるまでひとり佇んでいた。
暮れ行く世界の変容するさまに見とれ、宙空で立ち尽くしていたその時、男はその背中に痛烈な痛みを感じた。右の指でまさぐるとそれは瓦解していく氷である。なまぬるい凍結。血の匂いのする赤いつららが男の心臓を容赦なく愛撫しているのだ。激痛に堪えかねて男はうずくまる。その赤みがかった鉛色の刀剣は、男のあばらを貫きさらに背に向けて成長を続けている。男は氷柱の先端を掌のなかにつつみこんでみた。男の指の間にはまぶしい緋の色が滲んでおり、もの哀しい繊細な美しさを湛えている。全身を包み込む容赦のない冷気が男の意識を曖昧にする。その冷たさは、いまや男の背中を突き抜けて孤独な成長を遂げた氷の肉体が発しているのだが、生き物のような凍結の営みは全身へと拡がっていく。やがて男の全身は、深紅の水蒸気に包まれて優しく凝固した。薄暮の中で、赤い氷の花がおごそかに結実した。茫漠とした鉛色の地平に深紅の一点が凛として息を潜めて存在している。
緋色に氷結した蘭花の内側では、男の内臓は依然として命の活動を希求し血液の脈流を絶やさない。葉脈のように男の肉体の表層を装飾する赤き血の流れは生命の暖かさに陶酔し、地上へと滴り落ちた。重力を志向した赤い冷花の滴りは土中に寄生し巨大な同心円を連ね、食中花へと変じて行く。貪欲な食欲を表現すべく大胆に造形が施された無数の口唇を持つその花は、吸引性の包容力を波紋のように湛えたまま、密やかな眠りのなかで成長を遂げる。
黄金の夕陽は中空の滄天を朱金に染めたのち、地平へと完全に埋没していた。取り残され、逡巡する夕暮れの名残は赤い斑点となり、やがて映画のフィルムが焼けただれるようにぽっかりと漆黒の穴を開ける。無数の黒い穴は世界を埋め尽くし、闇は空中の底に薄い皮膜を形成した。暗黒の夜が世界に貼りついた。
ささっていく。深紅の氷柱が男の中心にささっていく。地軸に憑かれて深く。男は泣いた。もういっぽうの氷柱の先端を背中に震わせながら男は透明で暖かなぬくもりのある涙を流し続けた。
時が経ち男の涙が枯れ果てるころには世界は深い寝息を立てていた。心臓の中心に深い痛みを宿したまま男は眠りについた。男の周囲では目の見えない行き倒れの妖精たちが聖歌を歌っている。妖精の歌が聞こえなくなると、世界はおごそかに停止した。
すべての生命の停止。この世界では、時間も生命の一変種に過ぎないのか。世界は虚無の誘惑に負け生き続けることを放棄し、新たな生命の自発的な萌芽が起こらない限り永遠に停止しているのである。
尺度のない気まぐれな夜にかすかな異変が生じ、停止していた時間がゆるやかに覚醒した。溺死していた世界が息を吹き返したのである。黒い夜のとばりに藍色の亀裂が走りその裂け目から深紅色の朝焼けが滲んでいるのだ。
太陽の溜め息が漏れ聞こえするような慎重な朝である。一晩中停止していたあらゆる生物の心臓は再び鼓動を打ち始め生命の再生と継続を自覚するのだった。
男は、濃紺色に凝固した確実な痛みを体内に宿したまま、鈍い重さに満ち溢れた実体のない夢のなかでうつらうつらしていた。まどろみのなかで、優しく耳元で囁く母の呼び声を聞き、男は穏やかに覚醒した。目覚めると、男は一晩中淡くにぎり続けていた掌中に潜む何ものかのかたちを感じた。ザラッとした感触がする。それは脆弱な生命が成長を拒否したと思われる、硬化したカラダの輪郭である。見ると、赤く凍死した蠍であった。
赤く染まった男の手の内側では緑の朝露を孕んだ螺鈿の甲殻がつややかに光る。ゆうべ流した涙の結晶が夜のうちに蠍に変じたのである。いとおしい生命への毒の予感が男の生きていく意志を支援した。一夜の激痛に堪えた男の肉体は今や小刻みに痙攣を繰り返し始めた。からだの内奥に脈打つ激しい毒の動流は、皮膚の代謝を軽やかに促し続ける。新生の自覚が、全身に分布する細胞に抜け目なく宿って行く。
銀白色の太陽が西の空にぶらさがるようにのぼるのと時を同じくして、すべての生命は回復した自生の意志を受け入れた。
全身の震えから開放された男の肉体はいまや濃緑色に輝く新しい影を従えている。男は影と共に歩き始めた。
ザクリと暖かな音がする。
男の足はしっかりと肉体の重さで地面を踏みしめているのだ。